フォルテピアノ

 1700年頃にフィレンツェで産声を上げたピアノは、その後急速に発展を遂げ、バロック時代に花形鍵盤楽器として愛奏されていたチェンバロを駆逐する勢いでヨーロッパ中に広まっていきました。

 今日、現代のピアノと区別するためにこういった初期のピアノを「フォルテピアノ」と呼んでいますが、これは、元祖ピアノに対して命名された”Gravicembalo col piano e forte”(ピアノからフォルテまで奏でられる大型チェンバロ)という楽器名に由来するもので、初期のピアノをチェンバロと差別化するために「ピアノからフォルテまで」という呼称が与えられたことによります。現代のピアノも、正式にはピアノフォルテ(pf)と呼ぶように、初期ピアノと現代のピアノとの間に明確な線引きのようなものは存在しません。他にも「(ハンマー)クラヴィーア」と呼んだり、呼称には特に決まりがあるわけではなく、このサイトでも、「ピアノ」「クラヴィーア」「フォルテピアノ」と様々な言い方が混在しています。

 チェンバロは、爪が弦をはじく方式で発音する機構なので、音の強弱をグラデーションで表現することには適していませんでした。これはバロックの音楽スタイルには適っていたのですが、18世紀に入ると音楽的な欲求からも、クレッシェンドやディミニュエンドを伴う強弱表現が求められるようになり、フォルテピアノはその要求に応える楽器として歓迎されたのです。発音機構は現代のピアノと同じ、ハンマーで弦をたたくことによります。

 アクションには大まかにふたつの流派が存在します。現代ピアノのアクションへつながってゆくイギリス式突き上げ式アクションと、ウィーン式跳ね上げ式アクションです。

 右上の写真は、ウィーン式跳ね上げ式アクションによるもので、モーツァルトや若い頃のベートーヴェンが愛用していたヴァルター・モデルの楽器です。左の楽器は、ハイドンが後年ロンドンに赴いた際に出会ったイギリス式突き上げ式アクションによるブロードウッド・モデルの楽器です。フランスでももっぱらこのイギリス式アクションのフォルテピアノが製作されていました。

 音域は、モーツァルトが亡くなる頃まではチェンバロと同じ5オクターブしかありませんでしたが、ベートーヴェンの生涯と重なるように、産業革命の波にも乗り急速に改変が施され、音域の拡大、音量の増大と力強さを増して行きます。左の写真、1802年ごろに製作されたブロードウッドは5オクターブ半の音域をもちます。

【関連動画】

L.v.ベートーヴェン:クラヴィーアソナタ 嬰ハ短調 「幻想曲風に」 Op.27-2 第3楽章

小倉貴久子(クラヴィーア)

小倉貴久子の《モーツァルトのクラヴィーアのある部屋》第11回のライブ映像☆

【コラム】モーツァルトのクラヴィーア

 

 大司教の管轄する地ザルツブルクでヴァイオリン奏者の父の元生を受け、幼少より尋常ならざる音楽への才能を開花させたモーツァルト。彼の生きた時代は、ピアノという楽器が世の中に次第に認知され広まってゆく時代と軌を同じくしていました。

 弦を羽の芯などでつくられた爪ではじくクレッシェンドやディミヌエンドの効果が出しづらいチェンバロという楽器から、ハンマーで打弦する、強弱の微細なニュアンスをつけることができるピアノへと変わりゆく時代に、鍵盤楽器の演奏家として、作曲家として生きたモーツァルトはそれでは具体的にどのようなクラヴィーアを弾いていたのでしょうか。

 モーツァルトが生まれた時に家にあった鍵盤楽器はチェンバロでした。立派な二段の鍵盤を備えたチェンバロのあったことがレオポルト(父)の手紙により明らかになっています。旅の際には、馬車にクラヴィコードを運び込んでいて、この楽器とは生涯にわたって深い関係がありました。また、タンゲンテンフリューゲルやスクエア・ピアノといったこの時代に発明されたさまざまなタイプのクラヴィーアを用いて、作曲も演奏も行っていました。

 モーツァルトがフリューゲル型(グランドピアノ型)のフォルテピアノと出会ったのは1777年のこと、アウグスブルクのシュタイン製のもので、今日ウィーン式アクションとよばれる、ハンマーを跳ね上げるタイプの楽器になります。

 帝都ウィーンに出ると(1781年)、この時期の傑出した鍵盤楽器製作家であるヴァルターの楽器(ウィーン式アクション)を購入。後年のモーツァルトの楽曲は、この新しいフォルテピアノという楽器を想定して、作品にさらに細かいニュアンスを込めていくことになります。また晩年になるとモーツァルトは、足鍵盤を装着し、1オクターブ低い音域の出るクラヴィーアを愛奏するようになったことが知られています。この楽器は遺産目録にも書き出されているのですが、現物は失われてしまっていて、この低音を奏でる足ペダルのついた楽器については想像の域を出ません。

 モーツァルトが現代のピアノを知らなかったことはもちろんのこと、モーツァルト時代のフォルテピアノといっても、様々なものがあり、それらの響きを蘇らせるためにはさらなる豊かな想像力が求められるのです。

 生まれたてのフォルテピアノという楽器に音楽の息吹を与えたのが他ならぬモーツァルトで、彼の存在なくして、ベートーヴェン以降のピアノ音楽の充実はなかったかもしれません。

 モーツァルトは幼少時、なによりクラヴィーアを通じて音楽を知り、時に人前で曲芸のようなものを披露したりもしながら、自分の手足と同じ感覚でこの楽器を扱うことができるようになりました。ヴァイオリンにも秀でていましたが、クラヴィーアが自身の音楽をもっとも表現し得る楽器だったのです。

 オペラやシンフォニー、また種々あるセレナードや舞曲などの機会音楽など、モーツァルトの名品はジャンルを問いませんが、クラヴィーアを交えた作品にとりわけ名作が多いのも彼の特徴ということができるでしょう。オーケストラに囲まれながらコンチェルトを演奏したり、レチタティーヴォとアリア「どうしてあなたを忘れられよう・・心配しないで、愛する人よ」K.505では、オーケストラを伴奏にソプラノとモーツァルト自身の演奏するクラヴィーアが絡まりあいます。歌も大好きなモーツァルトでしたが、自分では歌うことが叶わなかったため、クラヴィーアで歌と渡り合おうとしたのかもしれません。クラヴィーア・コンチェルトでは木管楽器のソリストをあたかも歌手に見立て重唱するような曲作りがなされています。こんな作品たちを聴いていると、モーツァルトの隠れた夢は、オペラで歌うことだったのかも、なんていう想像を掻き立てられたりします。

【コラム】ハイドンのクラヴィーア

 

 バロック時代盛期に幼少時代を過ごし、自ら新しい古典派の様式を模索し完成に導いた、まさに古典派の時代を代表する作曲家、ヨーゼフ・ハイドン。

 エステルハージ家で長いこと楽長として勤めながら、雇主の求めに応じて、器楽作品に偏った作品を多く生み出しました。ヨーロッパの辺境の地にあり、音楽的な干渉をほとんど受けない中で、ハイドンは独自の強い創造性に基づき、実験的精神旺盛な作品たちを数多く生み出してゆきます。

「交響曲の父」と安易に呼ばれていますが、残された100曲以上にのぼるシンフォニーは、あらゆる音楽上の発明の試みにあふれていて、エステルハージ家のオーケストラを実験台に楽器づかい、形式、そしてさまざまな趣味を音楽に込め、ひとつとして同じ作品はありません。疾風怒濤と呼ばれるシュトルム・ウント・ドランクの様式を経て、パリのために書かれた6曲のシンフォニー、そして最後にロンドンで書かれた12曲のシンフォニーによって古典派の金字塔を打ち立てるに至ります。

 さらに最晩年にウィーンで書かれたふたつのオラトリオ「天地創造」と「四季」により自然界と人間界のハーモニーをひとつにする偉業を成し遂げました。

 「弦楽四重奏」という新しいジャンルを実質的に創出したのもハイドンの功績です。それと同じように、ハイドンは「クラヴィーア三重奏曲」というジャンルにも大きな貢献をしています。

 クラヴィーア三重奏曲というのは、元はバロック時代の通奏低音(例えばチェンバロとチェロ)とソロ楽器(ヴァイオリンに代表される)という編成から派生してきたもので、事実、ハイドンの初期のクラヴィーア三重奏曲においてチェロはクラヴィーアの左手を完全になぞったもので、いわゆる通奏低音と役割はほとんど同じでした。クラヴィーアには数字が付されたものもあり、この編成がハイドンにおいてバロックの伝統から出発していることは明らかです。

 ハイドンもまたクラヴィーアには幼少の頃から親しんでいて、クラヴィーアのためのソナタの作曲もごく早い内から始まっています。初期のソナタは信憑性においても作曲年代においても不明な部分が多いのですが、最も早いソナタは20代に作曲されたといわれています。

 彼のシンフォニーと同じく、エステルハージ家における実験的なソナタ、そして時代の趨勢と合わせるように明快なソナタが書かれるようになっていきます。しかしここでも時代を切り開く役を担うがごとく、ハイドンは形式面においても調性面においても、さまざまな試みを打ち出してゆきます。演奏者に求められる技巧も高度なものになってゆき、1780年以降に作曲されたソナタはいずれにおいても大変充実したものです。

 ハイドンが62歳を数える1794年と翌95年、二度にわたりロンドンに渡りますが、そこで全く新しいタイプのクラヴィーアに出会います。ブロードウッドのつくったクラヴィーアは突き上げ式アクションと呼ばれるもので、それまで慣れ親しんでいたウィーンの跳ね上げ式アクションとは異なる構造をもち、音色も音量も新しいものでした。ハイドンの好奇心はロンドンで大輪の花を咲かせますが、クラヴィーア音楽においても3曲からなるソナタ集、珠玉の輝きを放つピアノ三重奏曲が作曲されました。