アダルベルト・ギロヴェッツ
Adalbert Gyrowetz 1763-1850
ボヘミア出身の作曲家で、本名はイロヴェツJírovecといいます。プラハで学業を修め、若い頃からピアノ、ヴァイオリン、作曲で才能を現し、語学の才能にも恵まれていたとのこと。1785年頃、シンフォニーが盛んに演奏されていたウィーンに出て、ディッタースドルフやハイドンの元を訪れます。
モーツァルトの予約演奏会でギロヴェッツのシンフォニーが幕開けに演奏され、モーツァルトにより聴衆に紹介されるという栄誉に浴したのもこの最初のウィーン訪問時のこと。
シンフォニーは、演奏会の幕開けを告げるために冒頭楽章のみが演奏され、最後に残りの楽章が演奏されるというように、分割されて上演されることも多かった当時。あたかも落語の前座のように、演奏会の幕開けにまず若い新進作曲家の作品が紹介されるような習慣があったとは興味深いことです。
その後ギロヴェッツは、ナポリでパイジェッロに師事したり、ローマ滞在中のゲーテと知り合ったり、イタリアを広く旅しました。出版した弦楽四重奏曲に人気が出て、作曲家としての認知度も上がったころ、1789年にはパリに移住。しかしフランス革命が勃発、その後、イギリスに向かいます。そこでちょうどロンドンに招かれていたハイドンと邂逅、得意の語学を駆使してハイドンの補佐役を果たし、この崇拝する師匠と、ハノーファー・スクエア・ルームズでふたりの作品によるプログラムが組まれ演奏されるという栄誉に浴することができました。ギロヴェッツの人生の最も輝かしい瞬間ということができるでしょう。
1793年にロンドンを後にし、1804年にはウィーン宮廷歌劇場の作曲家兼指揮者となり、オペラやバレエのための音楽を書きました。
ギロヴェッツは、このような劇場のための音楽の他に弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲などを多数作曲、シンフォニーも各地であわせて40曲余りを作曲しています。
しかし1848年に書いた自叙伝で本人も自覚している通り、長生きをし(過ぎ)たゆえに後半生には時代の流れに取り残されてしまうのですが、彼の人徳を慕う若い音楽家に助けられ晩年を過ごしたということです。
【A.ギロヴェッツの肖像画】
[アダルベルト・ギロヴェッツのシンフォニーを聴く]
シンフォニー 変ホ長調 作品6-2
ハイドンを敬い手本に作曲を始めたギロヴェッツ。この作品6のシンフォニーも、様式や転調の仕方という技術的な面にとどまらず、ウィットに富む陽気さのような人格的な面もハイドンを思わせるものに溢れています。事実、パリではハイドン名義でギロヴェッツのシンフォニーが出版されたりもしていて、当地で本人がその楽譜を目の当たりにするという珍事も起こったそうです。
ファゴットがヴァイオリンの旋律をなぞったり、第2楽章ではオーボエがコンチェルタントにソロを受け持ったり、第3楽章のトリオ(中間部)でホルンが大活躍したり、楽しい曲調に心が浮き立ちます。モーツァルトのアリアを思わせるような歌謡性を聴いても、ウィーンを中心に人気があったのがうなずけます。
伝記を読んでも曲を聴いても溢れ出るギロヴェッツの人の良さ、そして、尊敬する人とひとつとなれる柔軟性をもった作曲家だということが分かります。
弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲やフルート四重奏曲にも録音がありますが、どれも朗らかな明るさに溢れ、情感豊かな好ましい作品たちです。
(2015.2.14)
【関連動画】
アダルベルト・ギロヴェッツ:シンフォニー 変ホ長調 作品6-2
ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ、マティアス・バメルト(指揮)