カール・フリードリヒ・アーベル

Carl Friedrich Abel 1723-1787

 カール・フリードリヒ・アーベルの父、クリスティアン・フェルディナントは、J.S.バッハが集中して器楽曲に多くの名作を書いたケーテンの宮廷で、バッハ楽長の元、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロの名手として活躍していた人物です。かの〈無伴奏チェロ組曲〉は、クリスティアン・フェルディナント・アーベルのチェロを想定して書かれたものと考えられています。

 バッハ楽長がケーテンを去る年に産声を上げたのが、カール・フリードリヒ・アーベル。彼の育つ中で急激に宮廷楽団は縮小されてゆきますが、音楽家仲間から、また何より父親から直々に教えを受け、鍵盤楽器はもとよりヴィオラ・ダ・ガンバの名手として育ってゆくことになります。

 父の死後は、バッハ家を頼って勉学を積むためにライプツィヒへ。J.A.ハッセ率いる宮廷楽団をもつドレスデンで、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として57年まで活躍。その後、フランクフルトやパリを経由しロンドンへ行き、この地に腰を落ち着けることになります。

 ロンドンでは、自主演奏会や他の演奏家たちの演奏会の企画、生徒への指導、さらに楽譜の出版の許可を得て名声を高めてゆきます。

 そんな中、1762年にJ.S.バッハの四男、ヨハン・クリスティアン・バッハがミラノからやってきて意気投合。同居する程の親しい間柄になり、ふたりで〈バッハーアーベル・コンサート〉という市民向けのコンサートを企てます。1765年からバッハの死去(1782年)の直前まで長きにわたり続けられたコンサート・シリーズには、このふたりによって大陸から招かれる様々な歌手や器楽奏者たちも加わり、ロンドン市民社会に大きな話題を提供することになります。大陸から来る演奏家を受け入れコンサートを催す音楽の消費地ロンドンの姿は、思えば〈バッハーアーベル・コンサート〉がひとつ大きなきっかけだったのでしょう。

 バッハとアーベルは、自分たちのコンサートに適した会場まで建立しました。〈ハノーファー・スクエア・ルームズ〉は、ハイドンがザロモンに招かれて101番までのシンフォニーを演奏した会場でもあり、1900年までロンドンを代表するコンサートホールとして使用されていました。

【C.Fr.アーベルの肖像画】

 

[カール・フリードリヒ・アーベルのシンフォニーを聴く]

シンフォニー (第6番) 変ロ長調 作品7-6

 1763年にロンドンにやってきたモーツァルト一家は、この地で名の知られていたヨハン・クリスティアン・バッハとアーベルを訪問。これはモーツァルトの父、レオポルトのたっての希望でもありました。なんといってもレオポルトが理想としていた音楽を具現化しているふたりであったのですから。

 幼いモーツァルトは、学習目的でアーベルのこのシンフォニーのオーボエパートをクラリネットに置き換えつつ筆写しました。ソナタ形式である第1楽章の第2主題は管楽器のみで提示、長い展開部は短調域まで大胆に歩を進め、のんきな曲調の中にも工夫が凝らされています。中間楽章は短調でメランコリック。続く舞踊の第3楽章。
 この作品はヨハン・クリスティアン・バッハの持ち込んだイタリアのシンフォニーの形態が、アーベルの持ち前のギャラント・スタイルと融合し、確かにモーツァルトが目を見張るような魅力をたたえています。規模や管楽器の独立という観点から、後のアーベルの作品と比べても充実した作品となっています。

 モーツァルトがロンドンで筆写した譜面は後世まで受け継がれ、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社の旧モーツァルト全集でモーツァルトのシンフォニー第3番として出版されました。のちに訂正・削除されたため、現在、第3番は欠番となっています。

【1774年建立のハノーファー・スクエア・ルームズ】

(2015.2.13)

 

【関連動画】

カール・フリードリヒ・アーベル:シンフォニー 第6番 変ロ長調 作品7-6

カンティレーナ、アドリアン・シェファード(指揮)