フランソワ-ジョゼフ・ゴセック

François-Joseph Gossec 1734-1829

 ゴセックは、古典派の時代のフランスで、質量ともに圧倒するシンフォニーを書いた作曲家です。ベルギーのフランス語圏(ワロン地方)のヴェルニーという小さな農村に生まれ、幼い頃から音楽の才能を示し、アントワープのノートルダム寺院に出て聖歌隊員として美声をきかせ、ブラヴィエ(André-Joseph Blavier)の元で本格的な音楽の勉強を始めます。

 1751年、ゴセックはパリに上ります。音楽の勉強のためにはイタリアへ行くことが多かった当時にありながら、パリを選んだことによりゴセックは運命づけられます。

 紹介状をもって赴いたのは、ラ・ププリニエール(Le Riche de la Pouplinière)の擁する大規模な私設オーケストラを指揮していたラモー(Jean-Philipp Rameau 1683-1764)の元。このオーケストラにさっそく職を得て、1754年から55年にかけてこの楽団を指揮した、マンハイム楽派のシュターミッツ(Johann Stamitz)からも大きな刺激を受けます。

 劇音楽や宗教音楽とならんで、シンフォニーの作曲にも早いうちから取り組み、ラ・ププリニエール時代に20曲以上のシンフォニーを書いています。

 1762年にラ・ププリニエールが亡くなると、ゴセックはシャンティイのコンデ公ルイ-ジョゼフ・ド・ブルボンの私設劇場に監督として呼ばれ、その後66年頃からは、コンティ公ルイ-フランソワ・ド・ブルボンの館の常任音楽家に就任します。

 この時代、ゴセックは、オペラ・コミックや田園喜劇の分野で活躍。シンフォニーと室内楽の分野でも、管楽器により彩られた、多様な響きの作品を書くようになります。

 市民に力がつき、次なる時代の胎動が街を覆おうという革命前夜のパリでは、裕福な徴税請負人や貴族らの援助と一般聴衆の予約料のみでオーケストラが成り立つような社会が到来しようとしていました。そんな機会を逃すことなく、ゴセックは、1769年にパリの名手たちを集めてオーケストラ、コンセール・デザマテール(Concert des Amateurs)を創立します。そこで4年間にわたり監督を務め、定期公演用にシンフォニーを書き下ろすなど、積極的に活躍します。コンセール・デザマテール在任期間中の最後の年に、ゴセックは初めてハイドンのシンフォニーをフランスで鳴らしています。

 1773年にはこのオーケストラの監督の地位をサン=ジョルジュに譲り渡し、自身はコンセール・スピリテュエル(Concert Spirituel)を立て直すための統率者の一人になります。そして77年までのゴセックの在任中にコンセール・スピリテュエルは再び活気を取り戻すのです。78年にモーツァルトが嬉々としてこのオーケストラのために、今日〈パリ〉という愛称で呼ばれているシンフォニーを書いたことは、よく知られています。

 1765年に出版されたゴセックの作品8のシンフォニーではメヌエット楽章を擁する四楽章制をとっていて、ドイツのスタイルを継承するかに見えましたが、コンセール・デザマテールを創立した1769年に出版された作品12では三楽章制となり、この頃のゴセックは、フランス独自のシンフォニーのあり方を考えていたようで、形式においても厳格なソナタ形式は追求されず、テンポ指示にもフランス語を併記させるなど、より感興豊かなフランス独自の音楽を模索しようとしていたようです。モーツァルトの〈パリ・シンフォニー〉は、まさにこの頃のゴセックが掲げていたフランスにおけるシンフォニーが手本となっています。

 それから革命が起こるまでの間、オペラ座の音楽監督としてオペラ・セリア、抒情悲劇など舞台作品を作曲。幕間や踊りのシーンで奏でられるディヴェルティスマンやバレエ音楽に才能を発揮しました。

 オペラ座の運営管理委員会の最高責任者や王立歌唱学校の校長を任されるなど、フランス音楽界の重鎮として信頼を得てゆきます。

 1789年にフランス革命が勃発すると、ゴセックは共和派的心情をかきたてられ、国民軍軍楽隊の指揮を執るようになり、新体制を謳歌する歌曲、合唱曲、吹奏楽などを量産、「革命のテュルタイオス」と称えられ、1804年に創設されたばかりのレジオン・ドヌール賞を授かっています。その後はパリ音楽院で作曲の教授として教則本の執筆をするなどして教育に力を注ぐようになります。

 ナポレオンのクーデターにより執政政府が樹立した1799年以降、ゴセックの作曲家としての活動は下火になってゆきますが、75歳のゴセックにより1809年につくられた「17声部のシンフォニー」は、彼の輝かしい人生の最期を飾る、また、ナポレオン支配下の英雄的なフランスの空気を伝える作品になっています。

 舞台音楽の分野では、グレトリーやグルックの陰に隠れがちでしたが、彼のシンフォニーや室内楽作品は、革新性と独自性の宿る充実したものが多く、18世紀後半のフランスの器楽作品をゴセック抜きに語ることはできません。

【F.-J.ゴセックの肖像画】

 

[フランソワ-ジョゼフ・ゴセックのシンフォニーを聴く]

17声部のシンフォニー ヘ長調

 

 ここでは上述したゴセックが作曲活動を半ば終えた後の1809年に作曲されたシンフォニーを紹介します。彼の存命中には出版されることのなかった作品ですが、古典期のフランスのシンフォニーを名実ともに代表する大規模な作品になっています。

 第1楽章は堂々とした短い序奏から始まります。主部は英雄的で華やかな凱旋のファンファーレのよう。各々2管ずつ備えられた管楽器が技巧的に活躍。今日しばしば、フランスを指して「管楽器の国」と呼ぶことがありますが、その伝統は多くゴセックに負うところがあると言うことができるではないでしょうか。管楽だけの室内楽や吹奏楽の分野を彼が大きく発展させたのですから。対比されたテーマによるソナタ形式の雛形からは離れますが、様々なモティーフが終始絡み合いながらドラマティックな展開を見せます。マンハイム楽派の伝統に則った作風を尊重しつつ発展させています。

 第2楽章は、アリアのような歌心にあふれた緩徐楽章。自然な息遣いで近親調を行き来するなんとも美しい楽章。

 ハ短調のフーガがトリオでハ長調に転じるところなど、モーツァルトのハ短調の管楽のためのセレナード K.388を思わせる第3楽章。

 第4楽章では、第1楽章と同じように細かな動機が対位法的に絡み合ったり、他の動機と組み合わされたりして複雑に展開されてゆきます。最後には大団円の様相を呈し、あたかもゴセックの、社会に翻弄されながらも華やかだった人生を締めくくるようなフィナーレになっています。

(2016.7.3)

 

【関連動画】

F.-J.ゴセック:17声部のシンフォニー へ長調

リエージュ交響楽団、J.ウトマン(指揮)