アンリ-ジョゼフ・リジェル

Henri-Joseph Rigel 1741-1799

 ドイツ、ヴェルトハイムで音楽監督を務めていた父の元で、また短命だった父亡き後も同街で教育を受け才能を現したリジェルは、おそらくマンハイムなどでも修行を続け、20代半ばになってフランスに向かいます。本名はリーゲル(Riegel)といいましたが、フランス風にリジェル(Rigel)と名を改めました。

 パリに移り住むとさっそく名声を獲得し、フランス音楽界を代表する顔のような任務を若い頃から任されるようになります。革命後には設立された「パリ音楽院(Conservatoire)」の初代ピアノの第1クラス教授に就任し終生その地位にありました。

 この肩書きが証明する通り、鍵盤楽器の分野で抜きん出た活躍をしていたリジェル。1780年前後のパリでは随一のピアノ奏者として名を成していたとのこと。このころのフランスの鍵盤作品は、J.ショーベルト(Johann Schobert)が開拓した〈ヴァイオリン伴奏付きクラヴィーアソナタ〉という形態がひとつのジャンルとして確立されていて、リジェルの鍵盤作品についても、作品1(1767)を除いて全てが様々な楽器の組み合わせによる伴奏がついたものになっています。残念ながら音源がなくどのような曲か分からないのですが、ヴァイオリン2、ホルン2、チェロを任意に加えることのできるソナタ集などが残されています。

 リジェルは他にも生涯で様々な領域の作品に触手を伸ばしました。1774年に『出エジプト』、78年に『ジェリコの滅亡』とヒーローを戴くオラトリオを書き、これらは〈コンセール・スピリテュエル〉の定番曲となり19世紀に入ってからも取り上げられるほどの人気を得ます。1780年からは劇音楽に関心を向け『ロザニー』、『白と朱色』などのオペラを書き、パリ中の劇場で盛んに演奏されました。83年以後は、〈コンセール・スピリテュエル〉の10人の専属作曲家の一人に選ばれ、このオーケストラのために多くの作品を書くようになり、〈コンセール・デザマテール〉や、〈コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック〉等、パリの名だたる団体でも頻繁にリジェルの作品が取り上げられたとのこと。

 またこれらの団体ではシンフォニーも数多く演奏されたのでしょう。リジェルのシンフォニーは、1774年に6つのシンフォニー(作品12)、80年と83年に1曲ずつ、86年に作品21として再び6曲セットが出版されています。

 当時これほどの人気を博し敬われた作曲家でありながら、リジェルの復権は著しく遅れているように思います。現行CDの検索をかけても弦楽四重奏曲集とシンフォニーが1枚ずつひっかかるだけです。過去にオラトリオ三作品を1枚のCDに録音したものが出ていましたが、今は入手困難になっています。少なくともシンフォニーだけでも全曲をCDという形で聴きたいと願っています。

【H.-J.リジェルの肖像画】

 

[アンリ-ジョゼフ・リジェルのシンフォニーを聴く]

シンフォニー (第8番) ト短調 [1783]

 

 リジェルの残したシンフォニーはごく一部の例外を除き、全てがこの時代のフランスのシンフォニーの標準型である急−緩−急の三楽章で成り立っています。彼の作品にはウィーンのシンフォニー作曲家の影響も色濃く影を落としていますが、この点についてはイタリアの序曲の伝統が受け継がれています。

 またリジェルの残した作品はシンフォニーに限らず短調作品の比率が高いという特徴があります。長調の作品でも短調領域で濃厚な陰りをつくることが多く、この時代にしては例外的に短調への志向の強い作曲家ということができるでしょう。

 このト短調シンフォニーにおいても感情表出はかなり露骨で、ハイドンのシュトルム・ウント・ドランク期の作品を思わせる激しさ、C.Ph.E.バッハゆずりの唐突な気まぐれに支配されています。

 第1楽章はソナタ形式ですが、凝縮された中にも展開部は充実していてドラマ性に溢れています。第2楽章は弦楽器と第1オーボエの対話が愛らしく、ユニークな小品。第3楽章は意表をつく半音階、しかもユニゾンで始まります。表情の突然の変化、様々なフレーズが切れ切れになりながらも統一がとられ、嵐のようなパッションに思わず巻き込まれそうになります。

(2015.4.23)

 

【関連動画】

アンリ-ジョゼフ・リジェル:シンフォニー ハ短調 作品12-4より第1楽章

レ・タラン・リリック、クリストフ・ルセ(指揮)☆