ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ドゥ・サン=ジョルジュ

Joseph Boulogne Chevalier de Saint-Georges 1748頃-1799

 サン=ジョルジュがロンドンで描かせた肖像画を見てみると、右手にはフェンシングの剣、背後には楽譜とヴァイオリンが描かれています。

 騎士という意味の「シュヴァリエ」を自身の名の中に入れていることからも推察できる通り、サン=ジョルジュは武術に秀でており、有数のフェンシングの選手として知られていました。また乗馬やスケート、水泳などでも優れた資質をもっていたということ、その上、ヴァイオリンにおいても確かな名手として鳴らしていたのですから、その多才ぶりに驚かされます。

 サン=ジョルジュの出生について詳しい資料はなく、ニューグローブ音楽事典には1739年頃と、他の資料には、45年とも48年とも記されています。

 父はグアドループ島の裕福な農園主、母はナノンという名で知られるセネガルから連れてこられた黒人の女性とのこと。グアドループ島か、現ハイチのサン-ドマングでサン=ジョルジュは生まれたようです。

 ほどなくパリに移住、フェンシングの腕を上げるとともに、肉体訓練と一般教養について厳しい教育を受けました。音楽、ことにヴァイオリンはJ.-M.ルクレールに学んだという伝聞があり、F.-J.ゴセックとは長期にわたる親交があったので、若い頃から師弟関係にあったのではないかと言われています。

 1772年に、当時パリでナンバー1のオーケストラとして知られていた、〈コンセール・デザマテール〉と自作のヴァイオリン・コンチェルトを演奏してデビュー。ゴセックが創設し監督を務めるこのオーケストラのヴァイオリン奏者として活躍を始めます。翌73年にゴセックが〈コンセール・スピリテュエル〉の監督に移籍すると、サン=ジョルジュは〈コンセール・デザマテール〉の指揮者を受け継ぎ、在任期間中このオーケストラを繁栄させます。しかし1781年、おそらく財政上の理由からオーケストラが閉鎖されてしまうと、〈コンセール・デザマテール〉のメンバーの大半を率いてサン=ジョルジュは直ちに〈コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック〉を設立、こちらもすぐに名声を得るに至ります。

 ところでハイドンはこの頃、パリからシンフォニーの作曲依頼を受けていますが、6曲セットのパリ・シンフォニー第82番から第87番。及びドニィ伯爵の依頼で書かれた第90番から第92番の3曲のシンフォニーは、サン=ジョルジュが監督を務めていた頃の〈コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック〉によって演奏されました。

 ヴァイオリニストとして指揮者として、華々しく活躍したサン=ジョルジュですが、フランス革命に伴い、〈コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック〉も解散の憂き目に会います。革命の最中サン=ジョルジュは、シュヴァリエの名に恥じない活躍をします。1000人の黒人からなる「サン=ジョルジュ部隊」を南フランスで編成するのです。しかし戦果を挙げることは難しく、その後18ヶ月間監禁されてしまいます。

 しかし、まだめげないサン=ジョルジュ。1797年再び音楽の舞台に戻ることを決意。〈ル・セルクル・ドゥ・ラルモニー〉という新しいオーケストラの指揮者に就任します。創造的でたくましい力で切り開かれた彼の人生でしたが、しかし既に死期は目前に迫っていました。

【J.B.de サン=ジョルジュの肖像画】

 

[ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ドゥ・サン=ジョルジュのシンフォニーを聴く]

シンフォニー(序曲) ニ長調 Op.11-2

 

 サン=ジョルジュはオペラの作曲にも積極的に筆を染めますが、その方面ではあまり注目されることはありませんでした。7つのオペラコミックを書いたと考えられていて、”L’amant anonyme”〈名無しの愛人〉は楽譜が現存しています。このオペラの序曲は、シンフォニー作品11の2としても出版されました。急-緩-急のイタリア序曲のスタイルを踏襲したもので、情感豊かなメロディーと快活さに彩られています。サン=ジョルジュは、自身が華々しく活躍するヴァイオリン・コンチェルト、サンフォニー・コンセルタントを数多く作曲しました。ヴァイオリンを弾きながらオーケストラを思いのままに操る混血の騎士は、多くの浮世を流したそうで”Don Juan noir”「黒いドン・ジュアン」とも呼ばれたそうです。

(2015.2.3)

 

【関連動画】

J.B.de サン=ジョルジュ:サンフォニー・コンセルタント ト長調よりアレグロ

Buskaid Soweto String Ensemble in Johannesburg