ヨハネス・マティアス・シュペルガー

Johannes Matthias Sperger 1750-1812

 18世紀後半にコントラバスのヴィルトゥオーゾとして東部および北部ヨーロッパで名を馳せたシュペルガーですが、作曲家としてもコントラバスのためのコンチェルトやソナタ、さまざまな編成によるカッサシオン(室内楽)やセレナード、ホルン二重奏曲など多くの器楽作品を残しています。

 彼は自作品目録をつくるなど几帳面な性格で、また就職活動の一環として各地のオーケストラをもつ宮廷などに作品を送付したこともあり、多くの作品が現存しています。シンフォニーは少なくとも44曲がさまざまな形態で残されているとのこと。

 シュペルガーはウィーン北方の現在ハンガリー領になるヴァルチツェに生まれました。音楽を学ぶためウィーンに移り住み、作曲をアルブレヒツベルガーに、コントラバスをピシェルベルガー(Friedrich Pischelberger 1741-1813)に師事します。このコントラバスの師匠はシカネーダーの楽団に所属していて「魔笛」の初演でもコントラバスを演奏した人物です。モーツァルトの作曲した、バス歌手のためのアリア「このうるわしい御手と瞳のために」K.612にはコントラバス・オブリガートがありますが、そのパートを演奏した奏者としても知られています。

 シュペルガーは、そんな環境の中で水を得た魚のごとくコントラバスと作曲の腕を上げたのでしょう。さっそく18歳の時にウィーンで自作のシンフォニーとコントラバス・コンチェルトを披露する演奏会を音楽芸術家協会で開いたという記録が残っています。

 コントラバス奏者として1777年から83年まで、15人の弦楽器奏者と名だたる管楽器奏者を擁するプレスブルク(ブラチスラバ)の枢機卿バチャーニのオーケストラに仕え、ここのオーケストラで演奏するためのシンフォニーや同僚のための室内楽など多くの作品を作曲しています。資料によると、この豪勢なオーケストラを皇帝が嫉妬して1783年に潰される憂き目にあったといいます。現在スロバキアの首都であるブラチスラバに、当時優れたオーケストラがあって、煙のごとく消えてしまったということを記憶しておきたいものです。

 その楽団の解散の後はエルデーディ伯の宮廷楽団に職を得ますが、そこのオーケストラも1786年に解散してしまいます。

 この後シュペルガーは職を探すために広範囲にわたる旅に出ます。この期間に彼は、履歴書のように自作品を配ったとのこと。自身の記した「送付した楽譜の目録」が残されていて、これが有用なシュペルガーの伝記資料となっています。

 さてここで、現在一般に目にするコントラバスとはちょっと違っていた当時のコントラバスについて紹介しましょう。

 ウィーンを中心に18世紀の後半、多くのコントラバスのためのコンチェルトが書かれているのも考えてみると不思議なことです。シュペルガーの他に、当代一流のディッタースドルフ、ホフマイスター、ヴァンハルらがコントラバスのためにコンチェルトを書き、ハイドンもモーツァルトもコントラバスを独奏楽器として扱う作品を書いています。

 《ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本》(音友ムック)に掲載されている西澤誠治氏の記事によると、ウィーンのこの時代のコントラバスはヴィオローネ(バロック時代のヴィオローネとはまた異なる)と呼ばれ、調弦が上からA、Fis、D、A、Fという、5本のニ長調に特化したような弦が張られ、フレットも備えられていたとのこと。ウィーン古典派の時代は、コントラバス(ヴィオローネ)の黄金時代で、コントラバスの独奏楽器としての可能性が徹底的に追及され、その高い演奏水準が一世を風靡した、と氏はその本の中で述べています。

 シュペルガーのコントラバスをソロとする作品は、聴くからに難しそうなのですが、確かにニ長調の作品が多いので、このウィーン調弦で演奏すれば、不可能ではないのかも、と想像をめぐらしつつ聴いています。彼はまた、さまざまな調弦法を試みつつコントラバスの秘める無限なる可能性を開拓してゆきました。

 さて結局、シュペルガーは1789年にルートヴィヒスルスト(北部ドイツ)のメクレンブルク公に雇われ、その地で、時に演奏旅行などもしながら、最期まで幸福に暮らしたということです。亡くなった2週間後には、この世紀のコントラバス奏者の死が悼まれつつ、モーツァルトのレクイエムで送られたと記録にあります。

【J.M.シュペルガーの肖像画】

【左:ウィーンのヴィオローネ、右:バロック時代8フィートのヴィオローネ(西澤誠治氏提供】

 

[ヨハネス・マティアス・シュペルガーのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ハ短調 Meier A26

 

 1796年にシュペルガーが書いた〈大シンフォニー ヘ長調〉は、2本のヴァイオリンのみによって始まり、徐々に他のオーケストラのメンバーが加わり、最後には全員が登場するというスタイルの興味深い作品です。ちょうどJ.ハイドンのシンフォニー〈告別〉(徐々にメンバーが退いてゆく)と逆の発想に基づく興味深いシンフォニーを書いていることをまず紹介します。

 ここでは彼の大規模なハ短調のシンフォニーを聴いてみたいと思います。

 全体的にハイドンのシュトゥルム・ウント・ドランク期の作品を思い起こさせるような激しい曲調の1787年に作曲されたシンフォニーです。第1楽章を聴いて否が応でも比較したくなるのは、ベートーヴェンの第5番のシンフォニーハ短調。第2主題の平行調への移行、共通動機による統一感、などの共通点が見られます。再現部へ第1主題の途中から長調になってつなげて入るなど工夫が凝らされています。第2楽章は、3拍子の歌謡楽章。A-B-A-C-A-中間部-Da Capoという形式で、この楽章を聴いたあとには、メロディーを口ずさみながらしばし散歩でも、という気にさせるのどかな雰囲気にあふれています。第3楽章は、典型的なウィーン古典派のメヌエット。主部がハ長調、トリオはオーボエが旋律を奏でるヘ長調。溌剌でかつ柔らかな雰囲気をもったメヌエットです。弱奏の問いかけから始まる第4楽章はすぐに疾走の嵐に巻き込まれて行きます。音階で上下する力強いユニゾンにまとまり、要所要所に楔を打ち込みます。

 超絶技巧のコントラバス奏者として有名だったシュペルガーですが、独創性に若干欠くとはいえ、ここまでの作品を残しているのですから、やはり埋もれさせておくにはもったいない作曲家の一人として、さらなるルネサンスを期待したいと思います。

*関連動画はこの曲とは異なるシンフォニーです。

(2018.1.12)

 

【関連動画】

J.M.シュペルガー:シンフォニー 弦楽のためのシンフォニー 変ロ長調

ムジカ・エテルナ・ブラチスラヴァ、P.Zajíček(指揮)