ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ

Wilhelm Friedemann Bach 1710-1784

 彼の前半生はあたかもW.A.モーツァルトのように恵まれたものでした。ヨハン・セバスティアン・バッハという偉大な父の長男に生まれ、父親から教育用に楽譜集を編んでもらい直に教育を受け、そのおかげで驚くべき才能をみせつつ成長してゆきます。

 学業を収めると1733年、父の口利きもありザクセンの首都であるドレスデンのオルガニストに就任。その後、1746年にハレで聖母教会の音楽監督兼オルガニストという名誉ある地位につきます。

 しかし、1750年に父親が亡くなると彼の人生は変転を始めます。ハレという街は、教条的な敬虔主義の支配下にあり、父親もそうであったように、フリーデマンにも、そのような熱心な敬虔主義者として仕えることが自然と求められるところがありました。しかし本人はそこに息苦しさを感じ、度々街を抜け出すなどの逸脱行為に走り、雇い主との関係が次第に悪化。追い打ちをかけるように1756年から始まった七年戦争によりハレの街は荒廃し、フリーデマンは生活にも不満を覚えるようになります。

 結局1764年のとある日に無断で職を放棄。以後20年間、亡くなるまで定職に就くことはありませんでした。

 ハレにはその後1770年までとどまり、1774年ベルリンに居を構えます。

 ベルリンではオルガン演奏の機会が与えられ、フリードリヒ大王の妹アンナ・アマーリア公妃からの支持を得、有力な有能な弟子をもち、光明が見えるかに思われましたが、宮廷作曲家の地位を得ようと、旧知の間柄のJ.Ph.キルンベルガーを貶めるよう謀るなど、浅はかな行動から信用を失いゆき、最後は赤貧の中亡くなるまで落ちぶれていきます。

 父親の遺産の楽譜を売り払ってしまったり、父の作品を自分の作品と偽ったり、またその逆もあったとのこと。後世においても名誉の回復ができずにいる彼の人間性の問題は、しかし父親との特別な関係を脇に置いて語ることはできないでしょう。そこには父親に溺愛され自立できない息子像が立ち上がってくるのです。

 彼が世の中とソリが合わなかったのは、人間的な性格面ばかりではありません。フリーデマンの長い人生の中で、音楽は大きくその様式、スタイルを変えていきました。

 18世紀後半にあって、フリーデマンほどオルガンの即興演奏に長けていた人はいなかったはずです。対位法を楽々と使いこなし、情感をたたえた絶妙なホモフォニックな作曲における書法も追随を許さないものがありました。

 しかし、時代のページはとっくにめくられ、ギャラント様式などに代表される、平易で明るい作風が求められる時代を迎えていました。父、ヨハン・セバスティアン・バッハも18世紀前半にありながら時代遅れと言われていたのに、フリーデマンは父親の作風を受け継ぎ、それに自身の個性を加えることはしたものの、新しい時代の空気に安易に迎合することを拒み続けたのです。

 フリーデマンの心はいつも偉大な父の面影に支配されていたのではないでしょうか。彼の理解しがたい行動を表面的に咎めるのはやさしいことですが、彼の心理面の解明なしに安易に非難することは避けるべきだと思います。

 彼の音楽に対するこだわりは世の中に広く受け入れられることはありませんでしたが、それでも時代の空気とフリーデマンの内面がスパークを起こした時に生まれ出る音楽には、独特の魅力を聴くことができます。どの時代に分類したらいいか迷うような、時代を超越した魅力が彼の作品から放たれています。

【W.F.バッハの肖像画】

 

[ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのシンフォニーを聴く]

シンフォニア ニ短調 F.65

 

 2本のフルートの持続音による掛け合い、痛みを伴う繋留音。曲頭アダージョの印象的なフルート二重奏を聴くと、フリーデマン・バッハの有名な6曲からなるフルート・デュオ集を思い浮かべる人もいることでしょう。

 このシンフォニアの成立の経緯は不明とのこと。CDの解説書でも意見が割れていますので、ここではふたつの説を紹介しましょう。

 ひとつは、1758年(ハレ時代)にポツダムのフリードリヒ大王の誕生日を祝うために書かれたカンタータの導入曲として作曲されたとするもの。フルートの特異な扱いは、この楽器を愛奏する大王を意識してのものとなるのでしょう。技術的に難しいパートではないので、大王の師クヴァンツ(Johann Joachim Quantz)とのデュオで演奏された可能性も十分に考えられます。

 もうひとつの説は、自筆譜の研究によっても実証されていると主張するもので、こちらはドレスデン時代に作曲されたと推測しています。ドレスデンには優秀な宮廷オーケストラがあり、フリーデマンも数多くの器楽作品をここで作曲しています。この作品がドレスデンで書かれたものとすると、フリーデマンと同時期にこの地の宮廷楽師として活躍していた18世紀の名フルート奏者、ビュファルダン(Pierrre-Gabriel Buffardin)が演奏したに違いないと想像がふくらみます。

 第2楽章には途切れることなくアタッカで続きます。厳格かつ淀みのない四声のフーガにフリードリヒの腕が冴え渡ります。

 このシンフォニアは、18世紀前半のドレスデンで数多く演奏されていた、カトリックの宮廷礼拝堂におけるミサの器楽グラドゥアーレの形式を踏襲しているとのこと。また、「プレリュードとフーガ」という父親の世代が得意とした形式とも一致します。

(2016.2.2)

 

【関連動画】

W.F.バッハ: シンフォニア ニ短調 F.65

アトランティク若きオーケストラ、ステファニー-マリー・ドゥガン(リーダー)☆