レオポルト・アントン・コジェルフ
Leopold Anton Kozeluch 1747-1818
この時代、多くの音楽家がボヘミアを巣立ちウィーンやマンハイムで活躍をしましたが、コジェルフはその中でも最も成功した作曲家の一人です。
Koželuhという姓はチェコ語で「なめし皮職人」という意味で、その名の通り靴職人の家庭に生まれました。家系には音楽家になった年上の従兄弟もいて、コジェルフは少年時代から質の良い音楽の基礎教育を受けることができました。その同名の従兄弟と区別するためにレオポルトという名を使い始めたということ。ここでもチェコ語の綴りを記しておきましょう。Jan Antonín Koželuh(ヤン・アントニーン・コジェルフ)となります。
プラハでバレエなどの劇場音楽の作曲を開始、最初のクラヴィーアソナタ集を出版しています。その後1778年にウィーンへ移住、ピアノ教師として貴族の弟子を多くとるなど、ウィーン音楽界で急速に名前を知られるようになります。その3年後にウィーンへ同じくフリーランスの音楽家としてやってくるモーツァルトと同じ境遇ながら、貴族からの信頼度や人気はコジェルフの方が高く、1781年にはモーツァルトの後釜へと、ザルツブルクから宮廷オルガニストの職を打診されながらも断ることができるぐらいウィーンで安定した地位を築くことに成功しています。
1792年には新皇帝フランツⅡ世より宮廷楽長と宮廷作曲家に任命され、終世その地位にいたコジェルフ。今では想像もつきませんが、モーツァルトやハイドン、ベートーヴェンよりも社会的な地位の高い作曲家として名声を博していたのです。
確かにコジェルフは世の動きを捉えるのが上手だったのでしょう。音楽出版社を弟と立ち上げ軌道に乗せるとともに、自身の作品もさまざまな国で出版されています。経営・営業のセンスは芸術家の域を超えるものがありました。
作曲家としてのコジェルフの第一の功績は、フォルテピアノという新しい楽器の興隆をウィーンに本格的にもたらしたことにあります。
バロック時代の花形鍵盤楽器チェンバロは、古典派の時代に入ると新しい時代の音楽の要請から、フォルテピアノ(古典派キーワード参照)にその地位を譲ることになりますが、ウィーンでは、〈ウィーン式アクション(跳ね上げ式)〉と呼ばれるフォルテピアノを巡って大きなブームが18世紀の終わり四半世紀に巻き起こりました。
A.ヴァルター(Anton Walter 1752-1826)などのウィーン式アクションのビルダーがウィーンに居を構え、優れた楽器を製作してゆき、J.A.シュテファンやJ.B.ヴァンハル、そしてハイドンなどの作曲家が、チェンバロではなくフォルテピアノに特化した作品を書くようになり、クラヴィーアの一大文化がこの街に築かれていったのです。
モーツァルトがウィーンへの移住を決意したのも、この街のクラヴィーア・ムーブメントを頼りにしていたからで、事実ウィーンへの移住が決意に変わる瞬間の手紙(1781年6月2日)に、「ぼくの得意とする分野がウィーンではとても好まれているので、切り抜けて行くことができるでしょう。ここは、まさにクラヴィーアの国です!」と書き記しています。
モーツァルトより一足先にウィーンで活躍を始めていたコジェルフは、クラヴィーア作品を熱心に書きこの動きを積極的に推し進めていました。まさにモーツァルトの言うところの〈クラヴィーアの国〉を築いた立役者でもあったのです。
チェコの研究家ミラン・ポシュトルカの目録によれば、クラヴィーアのための協奏曲18曲、三重奏曲63曲、独奏用ソナタ50曲と、コジェルフによって残された作品には、この楽器のための作品の数が抜きん出ています。独奏用ソナタは40年間にわたって作曲し続けられました。それらの作品の質は極めて高く、ベートーヴェンを思わせる作品も少なからず存在します。しかしコジェルフは演奏することには消極的で、公の場でクラヴィーアを演奏しなかったのだとのこと。
クラヴィーア作品の他にも、オラトリオや教会音楽、弦楽四重奏曲など、あらゆるジャンルにコジェルフは手を染めていますが(宮廷作曲家という任務からオペラも創りましたが、現存しているものはありません)、シンフォニーも確実に真作と判断されるものだけで11曲と相当数を残しています。
ここでチャールズ・バーニーが1789年に書いた著書『一般音楽史』のなかで、コジェルフに対する同時代者たちの賞賛をまとめた言葉を紹介しましょう。
「彼の作品は(中略)おしなべて素晴らしい。信頼に値する質、良い趣味をもち、贅をこらして適切な和声を調える。この[ウィーンの]楽派に見られがちなハイドンの模倣は、他の作曲家に比してそれほど多くない。」
【L.A.コジェルフの肖像画】
【フォルテピアノ(A.ヴァルターモデル)の写真】
[レオポルト・アントン・コジェルフのシンフォニーを聴く]
シンフォニー ト短調 PostolkaⅠ:5
モーツァルトの有名なト短調シンフォニー40番 K.550の前年に書かれたコジェルフのト短調シンフォニー。この作品は作曲されるやいなや、ウィーンとパリ、そしてロンドンでも出版に至ったというのですから、モーツァルトの作品とは比較にならないほど当時人気を博していたということが分かります。(モーツァルトの第40番 K.550のシンフォニーは出版された形跡がありません。)
両端楽章は、少し時代はさかのぼりますがシュトゥルム・ウント・ドランクの様式。疾走感のある激しい感情のほとばしるもの。フーガによる掛け合いが緊迫感を与え、ドラマティックながら流れを乱すことなく大胆に気分を変化させてゆきます。第2楽章は変ホ長調となり、自然の美しさを讃えるような穏やかさに包まれます。フィナーレはテンポが速くなり、第2テーマの流麗さなどに同時代ウィーンの短調シンフォニーの特徴をみることができます。コジェルフ独自の個性の輝きに魅了される特筆されるべくシンフォニーです。
(2015.7.5)
【関連動画】
L.A.コジェルフ: シンフォニー ト短調 PostolkaⅠ:5
ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ、マティアス・バマート(指揮)