ヤン・ヴァーツラフ・ヴォルジーシェク

Jan Václav Voříšek 1791-1825

 数多いるボヘミア出身の作曲家の中でも抜きん出た存在であるヴォルジーシェクは、北東ボヘミアのヴァムベルクという街で、音楽・文化の指導的役割を果たしていた父親の元に生まれました。その父を継ぐべく音楽教育を施され、8歳にしてオルガン、ヴァイオリン、ピアノを弾きこなしボヘミア中に演奏旅行をするようになります。1802年には勉学を志しプラハに移住しますが、ここにヴァーツラフ・ヤン・トマーシェク(Václav Jan Tomášek)が居を構えていたのは幸せなことでした。創造的で演奏にも長けていたこの師の元で、対位法の研究から高次の作曲法を学ぶことができたのです。

 しかし、ベートーヴェンに傾倒していたヴォルジーシェクは、保守的なプラハから逃れるように1813年にウィーンに移住。そこでJ.N.フンメルにピアノ演奏と作曲を師事します。ヴォルジーシェクは、まずピアニストとして頭角を現し、フンメルやモシェレスのみならずベートーヴェンにもその腕前を賞賛されました。1818年からは楽友協会の指揮者になり、ここでの活動を通して、またゾンライトナーのサロンで6歳年下のシューベルトと知り合います。

 このふたりは親交を結び互いに影響を与え合うことになります。「即興曲」というジャンルをつくったのはヴォルジーシェクの方です。そのほかに「ラプソディー」や「牧歌」といった、すぐ後のロマン派の時代に好まれた詩的な表題をもつ三部形式のピアノ作品を開拓してゆきます。ヴォルジーシェクもシューベルトから多大な影響を受けていて、「彼女に」”An Sie”という通作シェーナ(歌曲)などにその跡を見ることができます。

 またベートーヴェンへの尊敬の念は、クラヴィーア・ソナタ 変ロ長調 作品20や、ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品5などに結実しています。ベートーヴェンもヴォルジーシェクを高く評価していて、特にラプソディー ニ短調がお気に入りだったとか。古典派的語法の中にも確かなロマン主義の香りが感じられる名作たち。ベートーヴェンとシューベルトの間にこのような才能が意義深く存在していたことに思いを新たにします。

 ヴォルジーシェクの明るく謙虚な人柄は人々から大いに愛されたということですが、作品からも心地良さが滲み出てくるようです。宮廷でも第一オルガニストという地位に登り詰め、これからの活躍に期待が集まっていましたが、若い頃から患っていた肺病が進行し、ベートーヴェンから彼の主治医を紹介されながらも甲斐なく、34歳という若さで亡くなってしまいました。

【J.V.ヴォルジーシェクの肖像画】

 

[ヤン・ヴァーツラフ・ヴォルジーシェクのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ニ長調 作品24  [1821]

 

 彼の手による唯一のシンフォニーは、淀みなく流れる旋律から和声の癖までシューベルトとの共通点が多く、このふたりが同じ土壌で育まれたことをよく証明してくれるものです。意表をつく出だしから、主調を提示するまでの焦らしなどユーモアを楽しむ余裕も十分。随所に凝らされた人懐っこい表情に笑みがこぼれます。緩徐楽章でチェロがヴァイオリンを従えて高音部で歌い出すなど、管弦楽には豊かな色彩があふれています。

 この作品は、知られざる古典派シンフォニーの中では結構メジャーな存在で、現代のオーケストラの演奏会でもしばしばプログラムに登るようになってきています。ヴォルジーシェクの作風の中に民族的な匂いを感じることはありませんが、チェコでは、スメタナ、ドヴォルジャークに至る道を築いた古典期の重要な作曲家とみなされ、シンフォニーに限らず演奏される機会が頓に多くなっているとのことです。

*一般にカタカナで「ヴォジーシェク」と綴られることが多いのですが、チェコ語の ř にはわずかにルの音が含まれるため「ル」を完全に無視することはできないと判断しここでは「ヴォルジーシェク」としました。Dvořákを「ドヴォジャーク」と綴らず(もっともこの表記を見かけることはありますが)「ドヴォルジャーク」と「ル」を入れるのと同じ理由によります。いずれにせよ「ル」と「ジ」は一音節で発音してください。ドイツ語表記は Jan Hugo Worzischek。

(2015.3.9)

 

【関連動画】

ヤン・ヴァーツラフ・ヴォルジーシェク:シンフォニー ニ長調 作品24

ヴロツワフ・バロック管弦楽団、ヤロスワフ・ティエル(指揮)☆