イニャース・プレイエル

Ignace Joseph Pleyel 1757-1831

 今日プレイエルというと、ショパンの愛奏したピアノをつくったメーカーを思い浮かべる方が大半だと思いますが、そのピアノメーカーを立ち上げたイニャース・プレイエルは、18世紀の末にヨーロッパ中に名を轟かせた作曲家でもありました。

 オーストリア生まれなので、ドイツ語ではイグナーツ・プライエル(Ignaz Pleyel)となります。彼は青年期にアイゼンシュタットのハイドンに弟子入りしました。ハイドンの元で学ぶにあたって、ラディラフ・エルデーディ伯から援助を受けていたプレイエルは作品1の弦楽四重奏を伯爵に献呈し修行時代に区切りをつけます。その後イタリアを訪問。ナポリではオペラ〈アウリスのイフィゲネイア〉の上演機会を得ます。

 1784年頃にストラスブールの大聖堂の楽長(オルガニスト)になり、ここで非凡な数々のジャンルの作品を作曲しています。フランス革命によって、教会での宗教活動が困難になったところ、ロンドンから〈プロフェッショナル・コンサート〉の指揮者として招聘を得、当地で自作のシンフォニーなどを演奏、作曲家として輝かしい時代を迎えます。

 1791年のロンドンにはやはりシンフォニー作曲家の大物ハイドンが招かれていました。プレイエルを招聘したのはクラーマー。ハイドンを招いたのは興行主ザロモンですが、この二大作曲家の放つシンフォニーによって、ロンドンの音楽界は大いに盛り上がったことでしょう。ちなみに、ハイドンとプレイエルには終世暖かな交流があり、ウィーンに住む後年のハイドンをプレイエルは幾度も訪問したということです。

 ロンドンから大枚を手に大陸に戻ったプレイエルは、ストラスブール近郊の城を購入したりしましたが、1795年にはパリに移住、出版社を設立します。

 プレイエル社は、緻密な彫版による美しい仕上がりの楽譜と、社長の確かな見識眼により繁栄し、1807年にはピアノ製造も開始します。息子カミーユと共に1815年に”Ignace Pleyel et fils ainé”〈イニャース・プレイエルと長男〉という商標でピアノづくりにも力を注ぐようになります。

 その後のビジネスは必ずしも順風満帆というわけには行かなかったようですが、それでも、これだけの作曲の才がありながら、楽譜出版、ピアノ製造と活動範囲を広げて行く、人としてのバイタリティーには驚嘆するばかりです。

 作曲家プレイエルは、19世紀に入ってからは、時代の潮流との乖離を自身でも意識したようで、作曲活動からは遠ざかっていきますが、そこら辺も、彼の時流をみる見識眼の裏返しととらえることができるでしょう。

【I.プレイエルの肖像画】

 

[イニャース・プレイエルのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ハ長調 Op.66 [1786/1803]

 

 作曲年に説が分かれるシンフォニーですが、1786年はプレイエルが修業時代を終えストラスブールで自活できるようになった年。タンプル・ヌフの楽長J.P.シェーンフェルトと一緒に公開演奏会シリーズを組織した年になります。

 この曲はハイドンの後期シンフォニーとの共通点が多く、古典派シンフォニーの雛形を見るような、明るく肯定的で爽やかなシンフォニーです。プレイエルは様々な楽器をソリストにおいたサンフォニー・コンセルタントにも傑作を残していますが、シンフォニーでも管楽器の音色を組み合わせて明るく豊かな色彩感をもたらしています。

*関連動画はこの曲とは異なるシンフォニーです。

(2015.3.15)

 

【関連動画】

イニャース・プレイエル:シンフォニー ハ長調 Ben 128

カペラ・イストロポリターナ、ウーヴェ・グロット(指揮)