カール・マリア・フォン・ヴェーバー

Carl Maria von Weber 1786-1826

 ドイツ国民のためのオペラを意識して、その創作と普及に人生を捧げたヴェーバーは、〈魔弾の射手〉という金字塔をもって、モーツァルトの〈後宮からの逃走〉や〈魔笛〉から受け継いだドイツ・オペラというジャンルに確固とした地位を与えました。ワーグナーはヴェーバーの棺をロンドンからワイマールへ移させるほど彼の音楽と考え方に心酔。確かに19世紀のドイツ・オペラの興隆は、ヴェーバー生前の八面六臂の活躍がなければ実現もかなわなかったのかもしれません。

 後世のドイツ人作曲家からそれほど敬われるに値する功績を残したヴェーバーとはどのような人物だったのでしょうか。

 ドイツ中を渡り歩く劇団の座長を父にもったヴェーバーは、修行時代から各地を転々とし、活動の場を短期間で代えて行きます。ギターも上手かったヴェーバーは、ロマン派の憧憬、「遍歴の吟遊詩人」を自ら体現するような人生をスタートさせます。若干17歳でブレスラウの楽長になり、劇場の配役から人事面まで改革を実行する強力なリーダーシップを発揮します。しかし妥協を許さない一徹なところから、その後の人生においても周囲との軋轢が絶えることがありません。そうした災いから逃れるために住居を転々とすることにもなるのですが、しかし劇場の改革はヴェーバーの理想を実現するためには必ずや求められることでしたので、ブレスラウを去った後も理想主義に駆られた果敢なアクションを貫き通してゆくことになります。

 二十歳を過ぎるとシュトゥットガルトからマンハイム、ハイデルベルクなどでピアノのための作品や劇付随音楽などを作曲。そうした中でも、理想とするオペラの台本がないか、常に目を光らせると同時に、文学や絵画からもロマン主義的要素を鋭敏に吸収してゆきます。今日よく演奏される、クラリネットやファゴットのための協奏曲を書いたのも二十歳代のことです。

 1813年にはプラハの劇場の監督に就任、いよいよオペラ改革を自らの手で施す準備が整ったかのようにみえました。彼の包括的な改革は実際には旧勢力の抵抗に合い思い通りに進みませんでしたが、プラハでは30人以上の作曲家による62作品を取り上げ上演したということ、先人のオペラを上演する中でヴェーバー自身の理想が次第に像を結んでゆくことになります。

 1816年にはドレスデンの楽長に任命され、ここでもドイツ・オペラを完成させるべく、劇場のあらゆる面に改革を施してゆきます。団員を刷新し、舞台美術に意見を言い、近代的なリハーサル・スケジュールを導入。オペラをより統一された芸術的営みへと高めるために惜しげもなく労力をつぎ込みます。

 そして1820年、ついに〈魔弾の射手〉が完成。ベルリンで初演され、たちまち反響を呼び起こします。このオペラはヨーロッパ中に広まり不朽の人気を得るとともに、イタリア・オペラに対するドイツ・オペラという概念が人々に認識される契機となりました。その後、ドイツ語オペラ〈オイリアンテ〉、そしてロンドンのコヴェントガーデンからの依頼で、英語による〈オベロン〉という大オペラを作曲してゆきます。

 ヴェーバーはピアノ演奏のヴィルトゥオーゾとしても名を成し、ピアノ作品や室内楽作品にも名作を残しています。

 しかしどうでしょう。ヴェーバーがシンフォニーを作曲した、という話を聞いたことはありますか?実際彼はベートーヴェンと同時代に生きたにもかかわらずこのジャンルには無関心を貫き通したのです。

 そんな根っからの劇場人だったヴェーバーにもしかし、偶然に近い形で2曲のシンフォニーが書き残されています。前述したブレスラウでの報われない楽長時代を経て、1806年秋に、ヴェーバーは、オーバーシュレージエンのカールスルーエ(現ポーランドのポクイ)でヴュルテンベルク-エールス公オイゲンの音楽支配人の地位を得ています。オーボエをかなりよく吹いたというそのオイゲン公はオーケストラを持っていて、さっそくヴェーバーにシンフォニーの作曲を依頼しました。ヴェーバーのシンフォニーはこの宮殿で誕生となったのです。

【C.M.v.ヴェーバーの肖像画】

 

[カール・マリア・フォン・ヴェーバーのシンフォニーを聴く]

シンフォニー 第2番 ハ長調 J.51

 さて、今日大作曲家のひとりとなっているヴェーバーの書いたシンフォニーと聞いて期待は否が応でも高まるというもの。ところが、ベートーヴェンにとってのシンフォニーの概念とは全く異なり、ほとんどシンフォニーを書くという意識もなく2曲をぺろっと仕上げたヴェーバー。作曲に費やされた期間は、1番のシンフォニーについては、1806年の12月24日から翌年1月2日の間、2番に至っては1807年1月22日に作曲がスタートし、同月の28日に書き上げられています。たったの一週間です。

 しかし、さらさらと書かれた分、即興性と天才的なひらめきにあふれているその2曲。チャーミングな作品には目がない古典派好きにはたまらないシンフォニーとなっています。

 さて、ここではその内の2番目のシンフォニーを詳しくみてゆくことにしましょう。

 全4楽章とも、管楽器がコンチェルタントに呼び交わされるさまがとても楽しく印象的。ソナタ形式の第1楽章は、トゥッティのファンファーレで幕が開きます。第1テーマを奏でるのはオイゲン公の楽器オーボエ。公爵の楽器だけあって、以下各楽章のここぞというところで主役として登場することになります。第2テーマの提示を司るのはホルン。ヴェーバーは、このカールスルーエで、難曲として今日でも有名なホルンのためのコンチェルティーノ(J.188)の第1稿をしたためていますが、この第2テーマを当時の無弁ナチュラルホルンで吹奏したのもコンチェルティーノのソリスト、ヨーゼフ・ダウトレヴォー(Josef Dautrevaux)だったのでしょう。ホルンとしては細やかで技巧的なテーマとなっています。展開部に入り長いソロを受け持つのはフルートです。型通り再現部になると、今度は第2テーマについてもオーボエが担当します。

 第2楽章はホルンのFの音から始まりますが、それに続きテーマを奏でるのがなんとヴィオラの独奏。当時としては珍しい楽器使いです。気の利いた彼の管弦楽法は若い頃からこのように練られていたのです。それをオーボエが受け継ぎますが、これは広い音域を歌う技巧的なもの。さらにファゴットと絡みながら、さながらオーボエコンチェルトのような展開になります。

 第3楽章メヌエットは深刻になってハ短調。中間部のトリオでは、ここでもオーボエがソロを吹きます。

 終楽章はスケルツォ・プレスト。笑いながらふざけ回る子供のような楽しい楽章です。本来短調が苦手なホルンに中間部のマイナーなテーマを吹かせるところも一興。曲尾には思いがけないことが起こり、思わずニヤリとさせられます。ぜひ最後まで聴いてみてください。

 ヴェーバーの人生は山あり谷ありで、壁にもたくさんぶつかりましたが、彼の開拓精神に溢れるポジティブな性格は、旧弊を打破し新風を巻き起こし続けました。そんな性格が彼のつくった全ての音楽から溢れ出ていて、演劇がかった少々大げさな表現は、こうした器楽曲でも、愛嬌のある魅力を聴くものに振りかけまわるのです。

【19世紀半ばのオーボエの姿】

(2015.5.20)

 

【関連動画】

C.M.v.ヴェーバー: シンフォニー 第2番 ハ長調 J.51

ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ、ロジャー・ノリントン(指揮)☆